生涯教育への願い 略 歴 著 作 エッセイ 言 説 野村佳子記念館
不易流行 | 修証一如
修 証 一 如

2002年1月8日 新年の挨拶を要約

 皆さま、あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします。
 昨日の毎日新聞の「教育の森」の欄に、作家の村上龍氏と音楽家の坂本龍一氏が「『希望』を語る」というテーマで対談された内容が載っていました。その中で、教育改革に触れられているところで私の印象に残ったのは、坂本氏が人間にとって何が大切かということにもっと真剣にならなければいけない、そして子どもに生き延びるということを教えなければいけない、といったことを言われ、それは日頃センターでも言われていることですが、坂本氏は「その危機感があれば、(子どもは)勉強すると思う」とおっしゃるのです。
 その危機感を、周囲の大人が感じていれば、子どもは敏感にそれを感じると思うのです。しかし、今の多くの大人たちを見てごらんなさい。こんな時代になっても、まだ自分の欲得の問題しか考えていないではないですか。ある程度流れは変わってきているのかもしれませんが、まだまだ既成の価値観の中で社会は動いていると思うのです。
 アメリカを中心とした市場主義の価値観の中で、物質的、金銭的な価値観の中で、競争原理の中で、ますます世界的に人間性が失われていっている現状を見ると、このままでは私はほんとうに人類の未来はないなと思うのです。たとえ存続したとしても、とても安心して住めるような社会ではなくなるのではないかと思うのです。
 しかし、そうした社会をつくったのも人間なら、それを元に戻すのもまた人間であり、そこに教育の役割の重大さがあります。

 タリバン政権崩壊後のアフガニスタンの状態を伝える報道で、捕虜となったタリバン兵の多くがきちんとした教育を受けていないという事実を見ると、今後この国はどのように復興をするのだろうと思うのです。
 日本は昔から教育には熱心でしたから、長い間鎖国をしていても、また前の大戦で敗戦国となっても、文化は発展していきましたし、属国になるといったことなしに国を保ってこれたわけでしょう。
 しかし、国が大きな危機を迎えたとき、もし国民に教育がなかったら、立ち上がる瀬がないだろうと思うのです。
 そうしたことを思うと、せめて日本くらいは、その長い教育の歴史を活かした、アフガン復興への貢献を果してほしいと思います。

 そのためにも、私たちは現行の教育への反省を持たなければならないと思います。戦後の教育は常に、いわゆる経済と連動していたと思うのです。国の経済を向上、発展させること、個人的にも豊かな生活をすること、そのために良い地位を得ること、そうしたことが常に目標になっていたと思うのです。
しかし、これほど大きな変革の時代を迎えた今、根底からその方向性が変わらなければならないと思います。
 私は、これまではすべてプラス指向だったと思いますが、これからはマイナス指向へと方向を転換すべきだと思います。つまり、あれを欲し、これを身につけ、これを手に入れと、あらゆるものを加えていくという発想から、これからは減らしていく、捨てていくという発想が大事だと思うのです。

 物やお金は、生活するためにある程度は必要ですが、これまでのように「もっともっと」という姿勢はやめたほうがいい、と言うより、やめなければ生きていけないのではないかと思うのです。だって、地球上の資源は有限なのですから、今のように大国のエゴでどんどんそれを収奪していったら、ますます貧富の差は広がっていってしまうでしょうし、その結果、ますますあの同時多発テロのような問題だって起こらざるを得ないでしょう。
 だとすれば、これからは持てる国と持たざる国の間に、ある程度の調和を保っていくことが絶対に不可欠だと思うのです。
 私は、日本人はもともとそれほど欲望の強い民族ではなかったと思うのです。そして、勤勉であり、質素、倹約という美徳を持っていたと思うのです。一度贅沢をしてしまうと、なかなかもとには戻せないかもしれませんが、今後の世界の存続という遠大なビジョンに立てば、やはり物質的にはプラスからマイナスの生活への転換を考えていくべきでしょう。

 それには「唯我知足」の心境の豊かさがあってはじめてそれをさせ得ましょう。人々の間にそうした豊かさが生まれ、そして徐々に世界がそうした方向に動いていって、人類の永続のために、持てる国が持たざる国にもっと分けていくということが起こってこなければ嘘だろうと思うのです。
 ささやかながらそうしたことを、私たちは活動の最初の動機の中に持ち、今日まで40年間を歩んできたと思うのです。
 今、人類は大きな節目を迎えていると思います。これまで追求してきた価値とは違った価値への、価値観の転換が必要だろうと思うのです。他者を対象にしての勝ち負けや、人より多くの物やお金を持ち、人より贅沢をするといったことの正反対に位置する価値、つまり、もっと人に分け与え、もっと人への労りを持ち、自分より持たざる者へ手を差し伸べ、苦しむ人々と共に苦しみ考えるといった、そうした人間性の開発こそ、今後の人類が生き残るために追求すべき新しい価値だと思うのです。
 今までより多くの人々が求めてきたものは、多分に物質的なものへの欲望だったと思うのです。そこから、より心を大切にした、精神的な向上を目指す、そうした方向への転換をしていかない限り、価値観は変わらないと思うのです。

 哲学者の故谷川徹三先生が、各界のいろいろな方と対談をなさったものをまとめた『九十にして惑う』というご本があるのですが、その中で地唄舞の名手武原はんさんとの対談がとても面白かったのです。
 その対談の中で、谷川先生が道元禅師の『正法眼蔵』に出てくる「修証一如」という言葉についてお話しになっていらっしゃるのですが、これは私たち皆に当てはまる言葉だと思ったのです。
 「修」とは“修行する”ということ、「証」とは“悟り”という意味。これが一つだと言うのです。修行の中に悟りがあり、悟りの中に修行がある。だから修行というものは止まることがない。止まったら悟りはなくなる。

 ほんとうはもっと深い意味を持つ言葉なのでしょうが、簡単に言えばそうした意味だろうと思うのです。修行と悟りは一つのものであり、修行を重ねることによって悟りは得られるけれども、そうかといって修行を怠ったら駄目になってしまうということでしょうね。
 それなのに私たちは皆、日々の営みを修行のうちにも入らないような段階の学びで止めてしまっているのではないでしょうか。ちょっと状態が良くなったり、ちょっとそれまでの悩み苦しみから抜け出すと、もうそれでお終いにしてしまう。それではほんとうは何のための勉強かがわからないですね。

 また、その対談の中で谷川先生は「いい骨董屋を育てるにはねえ、まず3年くらいは本物のいいものをたくさん見させる。そうすると、贋物や悪いものは、すぐにわかるということだね」というお話をされるのです。
 良い骨董というのは年月を経ている物でしょう。ですから、ほんとうに価値ある物はよくよく調べてみなければわからない。しかし、眼の利く人にはちょっと見ただけでその価値がわかってしまう。
 人間もそうだと思うのです。見る人が見れば、ちょっと会っただけで深みを感じる人がいる。逆にちょっと会っただけで軽薄だと思われる人もいる。私はやはり、自分は良い骨董になりたいと思うのです。ほんとうに深みのある、だれからも喜ばれる、だれをも喜ばせることのできる、そういう人柄になりたいと、皆さんも思いませんか?

 今、NHKの朝の連続ドラマで『ほんまもん』というのをやっているでしょう。私はあの「ほんまもん」という言葉はとてもいい言葉だなと思うのです。あのドラマは料理人の「ほんまもん」なのでしょうけど、物作りにも、芸術にも、学問にも、「ほんまもん」はあるのでしょうし、私は特に人間としての「ほんまもん」になりたいなと思うのです。
 そうした意味で教育は、やはり人間らしい人間をつくる、「ほんまもん」の人間をつくることを目的とするべきだと思いますし、自分自身がそうなりたいと思うべきだと思うのです。

 この対談の中で武原はんさんは、ご自分は昔、踊るときに首の出るクセがあったけれども、喉のところに針をさして、首が出そうになるとチクリと当たるようにして、そのクセを直した、というお話をされているのです。また「芸術にもこの修行、ご信心がないといけないと思いますね。それは、心が舞うんですから心が美しくないと、またものに対して厳しくないと、私はダメだと思います。そうでないと、怖いのが(舞に)出るでしょう」という言葉も美しいと思いました。
 自分の欠点を直そうと思ったら、それくらいの思いをして、自分自身で直さなければ駄目なのですね。「そんなにまでしなくてもいい」と言う人がいるかもしれませんが、自分が生きていくということは、すべてこのことに関わっていると思うのです。

 このご本の別の方との対談の中で、谷川先生はニーチェの「自分とは自分に最も遠いものだ」という言葉を引かれています。私はこの言葉の意味がわかるような気がするのです。
 自分中心の人は、自分のことだけですからね、ほんとうは自分が見えないはずなのです。他と自分、全体と自分、たえずこの関係の中で自分が捉えられてはじめて己というものがわかるのだけれども、自分中心の人は他を見ませんから、したがって自分をも知ることができないわけなのです。
 ですから、まずあらゆる関係の中での自己をきちんと認識することが、とても大事なことだと思うのです。

 センターは今年、創立40周年という節目を迎えます。そして秋には、「第8回生涯教育国際フォーラム」の開催も控えています。
 ごく普通の家庭婦人たちが、自分自身の足もとを調えながら、ごくごく平凡な生活をしながら、なおかつ世界的に活動をつづけてきている。こうした組織は他にあまり例がないのではないかと思います。自分がその一員であることの誇りや自負をもっと持ってほしいと思うのです。

 日頃からセンターの学習では、「時代認識」と「自己認識」の大切さを学びますが、人間として生まれてきた以上、自分の中にはさまざまな可能性があるのだから、それをあらゆるチャンスを活用して啓き出し、悔いのない生涯を送りたいではありませんか。やはり「ほんまもん」の人間になりたいではありませんか。
 日々を惰性で生きて、自己中心の自分を放っておいたら、自分のことだけをしていたら、とてもそうはなれません。
 “私”を捨てていく、自我を捨ててより大いなるもの、人間を超えた世界に対して、強い憧憬を持ちつづけることが必要でしょう。それができたら、死ぬまでにはある程度、「ほんまもん」に近づくことができるかもしれません。
 ですから、出会いというものを大事にしましょう。こうした活動に出会い、仲間と出会ったことを大切にしていきましょう。そしてその出会いを生んだ、自分自身の長いルーツの中にある徳というものに誇りを持ち、感謝を持ち、それへのお返しをしていきたいと思うのです。

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