年頭にあたって |
理事長 金子 由美子 |
新年明けましておめでとうございます。
今年、東京は比較的穏やかな天候に恵まれたお正月を迎えさせていただきました。
昨年の年始をふり返りますと、アメリカのトランプ大統領が就任を目前に控え、自国第一主義を掲げて、それ以前とはまったく違う方向性を示していました。世界に大きな影響を与える国ということを思いますと、ほんとうに一年を穏やかに過ごせるのだろうかと心配した昨年の年明けでした。
そして昨年一年を通り、世界はもとより、東アジアでは北朝鮮の問題などを通して、これほど危機的な状況になるのは、戦後初めてのことだったと思います。戦後最も危険な状況に入っているとも言えるような年を越したわけですけれども、兎にも角にも今年が無事に明けたことは、ほんとうに有り難いことだと思います。
そして、2018年という新しい年をどう捉えていけばよいか、そう思ったときに、やはり大事なことは、繋がりのなかで今年という時を見ることだと思います。
今年、平成30年は戌年です。私は実は戌年で還暦を迎えます。還暦とは、ご存じのように60年で干支が一巡し、再び生まれた年の干支に還るという年回りです。
そこで私の生まれた1958年はどういう年であったかをふり返ってみました。
この1958年は終戦から十数年経っている時で、もはや戦後ではない、という言葉が言われ始めた頃です。戦後の復興から高度経済成長期に入っていく、はしりのような年でした。そして高度経済成長の象徴のような東京タワーが完成したのもこの年でした。私は生まれたばかりですからその時代の空気を感じていたわけではないですが、当時の様子が書かれたものを読みますと、未来は明るく、経済は右肩上がりになっていくというような、そういった空気の中で私は生まれたのだと思います。
その当時の世界の人口は約30億人。そして、60年後の現在は倍以上の約74億人となり、その後も人口は増加傾向にあります。この60年の間に科学が加速度的に進歩を続け、経済が拡大を続けてきたわけです。それに伴い、社会構造の急速な変化がもたらされています。例えば私が幼児期の生活環境では、お風呂は薪で焚き、洗濯も盥や洗濯板だった。また、テレビも一家に一台持つことが夢のような時代だったところから社会は一変し、今はもう若い人はテレビを見ずにパソコンやスマホでYouTubeなどの動画を見ている。パソコンにしてもスマホにしても、一人に一台という、機器が日常生活に浸透している時代。そうした機器の進歩の速度に私などはついていけず、例えばDVDの録画操作も儘ならない状況です。
そうしたなかで、同じ地球で、人口が30億人から74億人と倍以上になり、自然界の資源を使って、一人ひとりが裕福になるような方向性を持つ。CO2を吸収し、酸素を供給する森林の面積は減少を続けており、CO2排出量が大幅に増加するような社会環境を生み出している。考えてみれば、この人口増加、経済優先の価値観のなかで、自然が無自覚に消費され続けていっている。そして人間が、自然界を無限の宝庫のように消費し尽くしアンバランスを生み出すなか、異常気象を巻き起こしているのは、むしろ当然のことのように思いますし、それでもなお、私たちは新しいものを追い求めているのだと思うのです。
その一方で高度経済成長期に作り上げてきたものは老朽化しています。昨年の新幹線の重大インシデントは、その象徴のように思います。前回の東京オリンピックの時に開通していますから、50数年来事故を起こしていないということは、素晴らしい乗り物だと思います。しかし、新幹線のみならず高速道路や、立ち並ぶビルなども、時間の経過のなかで老朽化していくことは避けられない状況なのです。
ですから私たちは新しいものばかりを追い求めるのではなく、新しかったものが古くなり、それをどう収めるかが大事になってくると思います。古くなるものから何を抽出し、どう現代に合う形に変えていくか、という課題があるように思います。そしてこの課題は、どの世界でもあり、家庭でも、家族のあり方や家庭の形態が変わってきていますし、企業でもさまざまな分野で形態が変わっていくなかで、何を大事な価値として抽出していかなければならないのか。また、どういったところを時代に即していかなければならないのか。この変わり目という見方を持つことと、変わり目をどう越えて繋がっていくのかに意識を持つことが大事な課題になると私は思います。
そして日本において歴史の中での大きな節目の象徴として、天皇陛下の退位が決まり、5月1日に、現皇太子殿下が天皇に即位される。この生前退位は、近々の歴史の中ではなかったことで、そのことがほんとうに大きな節目の一年となると思います。
先ほどもお話ししましたが、今年は戌年ですが十干十二支でいうと、戊戌という年なのだそうです。戊は、植物の成長が絶頂期にあるという意味で、戌は万物の繁栄が済み、勢いを収める時ということで、見方によっては相反するような意味合いを持っているそうですが、成長が絶頂を極め、それを収めていく変わり目の年と私は読み解かせていただきました。
世界の中の日本という視点で見ていくのに、一つひとつの事象を取り上げる時間はありませんが、世界の状況をよく見ていったとき、地球は有限なのに、人類は未だに経済、経済とその成長を求めて争奪戦を繰り広げ、対立、分断、分裂を続けている様相が見えます。その価値観の下にどうすれば有利になるのかに、多くの人が囚われているように見えてしまいます。もちろん経済は大事です。しかし経済だけでは幸せになれないことを、人間は余りにも忘れていないでしょうか。
幸せとは幸福感を伴ってはじめて幸せと言えます。つまり物やお金があっても心に苦しみを抱いたとき不幸と感じ、反対に物質的に貧しくても心が豊かであれば幸福感を感じることができる、と学んでいます。
1950年代後半、高度経済成長期に入ったとはいえ、まだまだ復興の途上にあった日本の当時の家族、仲間との繋がりがあった時代をふり返えると、そこにまだ貧しくても幸福感があったように思います。私たちはこういった時代の流れのなかで、何を価値として生きているのか。そして私たちは、日本は、人類は、何を価値として生きていくべきなのか。この時代の節目に改めて考える必要を思います。
皆さんはここで学ぶ前、もっと物やお金があったら幸せになると思っていなかったでしょうか。しかし、人間関係の躓きや相克など、それぞれの動機で学ぶなかで、お金も大事だけれど、今“自分にあるもの”を見ていく大事さ、外側のものばかりに囚われて見えなかった大切なもの、一番は自分の尊さですし、また身近な人の大切さに気づき始めて幸せ感を得てきたのではないでしょうか。それは自然界に生かされている人間であるというこの教育原理に照らし、自己中心の目で見ていた自分から、他者や他国との関係において自分を見るという視点をいただいたからではないでしょうか。学びを通して感じられるようになった幸せ感を、まず自分が持てたことを大事に思う。そして他者、他国と共に幸せになろうとする意識が生まれていることを確認し、その自分の価値観の変化をしっかり見ていく大事さを思います。
そして、今年、年頭に安倍首相は憲法改正に向けた議論を深めたい、という発言をされました。
日本は第二次世界大戦で原爆投下を受け、敗戦し、平和国家を築いてきました。武器を捨て、人間として大事なものを憲法に据えてこの70数年間を通ってきたわけです。核は抑止力になるという考え方があります。でも昨年一年を通して、ほんとうに核は抑止力になり得るのか、とても疑問に思いました。対話もせずに誤解や感情論で、もしかしたら偶発的に核のボタンが押されはしないかと、ものすごく心配になります。究極、核は恐怖心を煽り、威嚇する材料にしかなっていないのではないか。今の東アジア情勢のなかで日本はその恐怖と威嚇に怯えて、武器をなし崩し的に持つ方向を支持しようとしていくのではないか、という怖さを思います。私たち庶民は、憲法という国の基本原則を知らない間に変えようとされていないかを、しっかり見ていかなければならないと思います。
また、日本は、今年明治150年という節目でもあります。ほんとうにたった150年前までは髷を結っていたのです。髷を結っていた時代はおそらく武家政治になった鎌倉時代からでしょうか。そうすると700年近くの間、髷を結っていたところから、つい150年前に大きく社会状況が変わり、また約260年続いた江戸という時代が明治に変わった。そして約200年続いた鎖国から開国に至ったという、その150年前というのは、大きな変革の時であり、それが1868年の明治維新という年なのです。
この大きな変革には志士や、さまざまな人たちの、新しい時代を迎えるにあたってのそれぞれの役割があったと思うのですが、ここに徳川最後の将軍、徳川慶喜の大政奉還によって政権が幕府から朝廷に返上されたわけです。しかしその後も新政府側と旧幕府の完全な決着はついていなかった。さまざまな経緯を経て、徳川家側の勝海舟と、新政府側の西郷隆盛による江戸開城交渉が、江戸総攻撃が計画されていた3月15日の前日と前々日に行われました。勝と西郷、そして数名が直接交渉に臨み、勝が西郷に示した回答は、とても納得できるような内容ではなかったが、それでも西郷は「わかりました」と総攻撃を回避したそうです。さまざまな要因があるようですが、後に勝は「西郷は俺の言うことをすべて信じてくれた。最後まで手を膝の上に置き、正座を崩さず、敗軍の将を軽蔑するような態度を見せなかった。西郷のお陰で江戸の100万の命と財産、徳川家滅亡の危機が救われた」と述べたそうです。
つまり人間としての信頼関係が無血開城を成し得たのだと私は思いました。最終的に問われるものは、条件ではない、人としてどうあるか、そして信頼関係なのだと思いました。この人間性を培うことも信頼関係を培うことも、一朝一夕にはいかないものです。ましてこのことを今の時代に置き換えたとき、人を信じないように、というような教育をしなければならないほど危険な時代ですし、信頼関係が失われている社会です。しかし、こういったことが歴史の現実としてあったこと。また、私たち日本人としてのルーツにあったということを改めて誇りに思います。今、技術や知識に重きが置かれ、人としてどうあるかを見失ってしまっている時代、仕事をするにも、政治や経済を預かるにも、人としてどうあるかがほんとうに大事なのだと思います。日本の伝統的教育が徳育を中心とする人間づくりをしてきた一つの形を、この無血開城を成し得た歴史に、私は見る思いがします。
そして私たちの中にあるこうしたルーツを引き出す教育を、野村生涯教育論の下で私たちはしているのだと思います。
詩人ゲーテは「世界のことは理解できるが最も理解できないのは自分自身である」と述べています。また、歴史学者のトインビーは「人類の生存に対する現代の脅威は、人間一人ひとりの心の中の革命的な変革によってのみ、取り除くことができるのです」と語り、また「人間とは歴史に学ばない生き物である」とも述べています。歴史を見てみると、人間はほんとうに愚かなことを繰り返しています。第一次大戦の後、二度と繰り返してはならないと国際連盟を発足させながら、第二次大戦を起こしました。しかしその後の72年間、さまざまな戦争はあっても、世界大戦級のものは起っていない。しかし、今歴史に学ばなければ、私たちは愚かなことを繰り返してしまうのではないか、というところにいるように思います。
ですから真剣に歴史をふり返り、私たち日本人の中に何を持ち、何ができるのか、しっかりアイデンティティを見据え、この学びを通して価値観を変え、幸せ感を持てるようになった確認をし、経済中心の社会に大事な価値、変わらない価値をもって繋がりをつけていく。特に若い世代に意識を持って、平和、幸福への貢献を社会に、世界に是非していきたいと思うのです。
今、世界が経済価値志向のなか、10年後、20年後の将来、人工知能(AI)やロボットの台頭により、労働環境は大きく変わるという見方があるそうです。汎用AIというものの開発が進み、大量の情報をAIに学習させ、それが一定値に達すると自ら学習を行うようになり、人間が知識を身につけさまざまな職業に就くように、あらゆる分野に通用する可能性があり、人間の仕事を奪うなどの脅威になる可能性がある。それが2045年には実現すると考えられているそうです。
そうなったらどういう時代になるのか。60年前の1958年当時、現代の社会状況は想像できなかったはずです。しかし、今から四半世紀くらいの間に、さらに想像できないような社会状況になる可能性がある。新しいものを次々追い求め、経済ベースの今の私たちの価値観では、そういう社会になるかも知れないのです。確かにAIが有効に使われるような、例えば介護など、さまざまな分野に有用な、明るい未来になるような開発が進むという一面はあります。しかし、もう一面には、野村生涯教育論がいう、教育が不問に付してきた人間の悪なる分野を視野に入れてこなかったなかで、あまり人間性を問わない教育で育つ人間が、その最新技術を悪用するという発想が弱いのではないか。現実に核が今、私たちが不信に思うような人間性の為政者の下で使われる可能性に怯え、取り返しのつかないことになるのではないかという懸念を持っているのです。近未来においてAIが軍事に使われる可能性があるならば、私たちはこの時代の節目をしっかり見据え、何を大事にしなければならないのか。私たちが学んでいる本質的な、共に幸せを感じられるような人間づくりを、人類はまず優先しなければならない。
人間は自然界と繋がってあり、そして生かされている自分自身を見るなかで幸せ感を持てる、そういったなかで感じるものが、どんなに大事な感覚であるか。自然界の秩序に則った見方を人類が学び、自分の人間性を問う意識を持つ人間が増えれば、どんな機器が生まれようとも、その人間性において機器を使いこなし、幸せな社会に繋がるのではないかと思います。
20数年後を踏まえた上で、私たちが学んでいることがどれほど大事な価値なのか今、改めて自分に問いたいと思います。
今年12月、第12回生涯教育国際フォーラムを開催いたします。少しでも社会が、世界が良くなるように、まず私という人間をつくっていく。内なる自分の意識、心や人間性を調えることによって外の世界が平和になることを願いとして、今年も皆さんと共に活動していきたいと思います。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
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(新年の顔合わせから) |
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